LOGIN床下の横穴から引き上げられた奈々香は、二〇三号室の和室へ戻ってからも何度も時計を確認していた。
照明が落ちてから発見されるまで、澪たちの側では三分ほどしか経っていない。
それなのに奈々香は、八年前の二〇三号室で二時間以上過ごしたと主張し、そこで七体の返し雛と制服姿の澄花を見たという。
夢だったと決めつけるには、彼女のポケットから八年前の日付が印刷された領収書が出てきたことが重すぎた。
美月は奈々香を座らせ、瞳孔、呼吸、脈拍、手足の感覚を改めて確認した。
目立った外傷も意識障害もなく、会話にも不自然な混乱はない。
ただし、床下の横穴へ入ったときから頭痛があり、口の中に薬品めいた苦みを感じていたと奈々香が話したため、蓮司が持っていた簡易の空気測定器で横穴内部を調べることになった。
朔と悠斗が換気をせずに測定すると、通常よりわずかに高い揮発性有機化合物の反応が出た。
「これで幻覚が起きたってこと?」
奈々香が訊くと、美月はすぐには頷かなかった。
古い接着剤、断熱材、カビ、床下に残った塗料などから揮発性物質が出ることはあり、狭い場所で吸い込めば頭痛や吐き気、集中力の低下を起こす可能性はある。
濃度や種類によっては時間感覚の乱れや視覚異常につながることも否定できないが、簡易測定だけで奈々香が見たものすべてを説明することはできないと、美月は慎重に言葉を選んだ。
「七体の人形も、澄花も、八年前の部屋も、全部私の頭が作ったって言いたい?」
「言ってない。そういう可能性の一部があるだけ」
「でも領収書は本物でしょ」
「少なくとも紙は古い。あなたが自分で持っていた記憶がない以上、誰かが入れた可能性も残る」
奈々香は不満そうに唇を結んだが、それ以上は反論しなかった。
澪は床下から出てきた白い人形の腕を透明袋越しに見つめていた。
肘から先だけの小さな陶製の腕は、二〇三号室にある返し雛の肌とよく似ているが、同じ個体から欠けたものかは分からない。
返し雛の両腕は揃っているため、奈々香が見た七体の人形のどれかに属する可能性さえあった。
蓮司は領収書を机の上へ置き、斜めから光を当てた。
表には八年前の日付と〈二〇三号室 三泊分〉という古い記載があり、裏には澄花の筆跡で〈奈々香へ。もしこれを読んでるなら、私はもうここにはいない。〉と書かれている。
前に確認したときは、その下が強く擦られて読めなかったが、紙を裏から照らすと筆圧だけが薄く残っていることに朔が気づいた。
「写真で反転させて、凹凸を強調する」
朔は紙を直接擦らず、角度を変えて何枚も撮影した。
画像の明暗を調整すると、消された文字の一部が少しずつ浮かび上がる。
完全には戻らないが、澪は澄花の字の癖を追いながら、一文字ずつ読んだ。
人形は二〇三号室へ返すんじゃない。
部屋そのものが、人形を隠すために作られてる。
全員の視線が、二〇三号室の壁へ向いた。
隠し部屋、押し入れの二重壁、床下の横穴、盗撮のための覗き穴。
常世荘のこの一室は、普通の六畳二間としては不自然な空間があまりにも多い。
人間が監視や侵入のために後から改造した部分だけではなく、もっと古い時代から壁の厚みや部屋の形そのものがおかしかった可能性がある。
蓮司が建築図面を広げ、現在の実測値を重ねた。
押し入れ側の隠し部屋についてはすでに差が判明しているが、もう一か所、浴室と外壁の間にも説明できない空白が残っていた。
図面上では配管スペースとして十数センチしかないはずなのに、外から測った建物の幅と室内寸法を差し引くと、一畳近い空間が消えている。
「ここだ」
蓮司が浴室側の壁を指した。
悠斗が管理会社の改修記録を確認しても、この部分を埋めた工事は残っていない。
朔が浴室へ移動し、鏡の仕掛けを外した壁とは反対側を軽く叩くと、中央だけ明らかに音が違った。
こん、と鈍い音が二度続き、その隣だけが、こぉん、と深く響く。
澪の背中に、押し入れの壁から返事が来た夜の感覚が蘇ったが、今回は向こうから叩き返す音はなかった。
蓮司は壁材の縁を確認し、後から貼り直した場所を特定する。
周囲をすべて撮影したあと、朔と悠斗が慎重に壁板を外し始めた。
古い接着剤が剥がれる臭いとともに、冷たい空気が細い隙間から漏れた。
壁の裏には断熱材がなく、さらに奥へ黒ずんだ木製の板が立っている。
そこにも小さな継ぎ目があり、蓮司が手袋越しに押すと、板は外側へ倒れず、奥へわずかに動いた。
「扉になってる」
幅の狭い板を押し込むと、その向こうに一畳ほどの暗い空間が現れた。
人が生活するための部屋ではない。
床は古い木板で、壁の上部には煤の跡が残り、正面に低い祭壇のような台が置かれている。
湿気と古い紙、焦げた木の臭いが混じり、隠し部屋の煙草臭とはまったく違う年代の空気が流れ出した。
蓮司が先に懐中電灯を向け、全員へ不用意に触れないよう告げた。
祭壇の左右には茶色く変色した御札が何枚も貼られ、文字は半分以上読めなくなっている。
中央には黒髪を束ねたものが七つ並び、割れた手鏡、焼け焦げた櫛、子ども用らしい小さな鈴も置かれていた。
さらに、祭壇の縁には七本の赤い組紐が一本ずつ等間隔で結ばれている。
「澄花のと同じ」
澪は自分の鞄に入れた組紐を思い出した。
編み方だけではなく、端へ使われている金色の留め糸まで同じに見える。
七本のうち一本だけ途中で切れ、残った長さが短くなっていた。
祭壇の中央には、人形一体が座れるほどの台座が空いていた。
丸く薄い埃の跡だけが残り、長いあいだ何かが置かれていたことが分かる。
奈々香はその形を見た瞬間、和室の返し雛を振り返った。
「ここ……じゃない?」
誰もすぐには答えなかった。
澪のスマートフォンへ届いた〈返す場所は、ここじゃない〉という澄花の言葉は、二〇三号室そのものを指していたのかもしれない。
部屋の壁のさらに向こう、図面にも出ないこの小さな祭壇こそ、返し雛を戻す場所だったと考えれば筋が通る。
悠斗は祭壇へ近づかず、周囲の壁を照らしていた。
煤で黒ずんだ木板の一部に、黄ばんだ紙が挟まっている。
取り出して広げると、古い新聞記事の切り抜きだった。
「昭和五十年代」
蓮司が日付を読む。
記事はこの土地で起きた小規模な火災を扱っていた。
常世荘が建つ以前、ここには個人が管理する小さな人形供養堂があり、古い雛人形や市松人形、故人の形見として残された人形を預かって供養していたという。
火災で建物は全焼し、管理していた家族の一人が負傷したが、死者は出なかったと書かれている。
続く小さな囲み記事には、焼け跡から多数の人形が回収されたものの、所有者不明のものが多く、すべてを引き取ることができなかったとあった。
その後、土地は売却され、数年を経て集合住宅が建てられた。
常世荘という名称までは記事にないが、住所は現在地と一致していた。
「壁へ封じたって噂もある」
悠斗が別の切り抜きを見つけた。
地域紙の怪談めいた短い記事で、供養できなかった人形の一部を新しい建物の壁へ納め、土地を鎮めたという住民の証言が載っている。
事実として確認された話ではないが、常世荘の壁内部に祭壇が存在する以上、完全な作り話とも言い切れなかった。
「じゃあ、この部屋は人形を隠すために作ったって、こういう意味?」
奈々香が祭壇を見る。
「少なくとも、この空間は隠し部屋より古い」
蓮司は木材の劣化を確認した。
後から作られた盗撮用の空間とは材質も釘も違い、建物の初期工事へ近い年代に見える。
人間の犯罪のために作られた壁内空間と、人形を納めるための祭壇が、同じ二〇三号室の壁の中へ別々に存在していたことになる。
美月は祭壇に並ぶ髪の束へ顔を近づけたが、直接触れずに一本ずつ数えた。
どれも黒髪に見えるものの長さも太さも違い、根元には小さな紙片が結ばれていた。
文字は水に滲んでほとんど読めなかったが、一枚だけ〈返〉という字が残っている。
七本の赤い組紐も同じ位置へ対応するよう配置されており、単に人形を置く棚ではなく、何らかの手順を伴う場所だったことがうかがえた。
朔は祭壇の下部を撮影し、台座の裏へ指一本分ほどの溝があることを見つけた。
溝の中には古い紙灰と焼けた糸が詰まり、何度も何かを燃やした跡が残っている。
蓮司が新聞記事の日付と建物の築年を照合すると、人形供養堂が焼けたあと、この空間だけを残す形で常世荘が建てられた可能性が高かった。
壁の盗撮穴や隠し部屋は後世の犯罪者が加えたものでも、この祭壇だけは建物の成立時から存在していたらしい。
澪は七本の組紐を見ながら、七刻女学校で渡された六つの忘れ物と、澄花が持っていた返し雛を思い出した。
七という数がどこまで人間の演出で、どこからこの場所に元々あったものなのか、もう簡単には切り分けられない。
もし誰かが古い祭壇の形式を知り、それを七不思議や七人の仲間へ重ねて現在の儀式を作ったのなら、人間の犯人は常世荘の来歴まで調べていたことになる。
澪は和室へ戻った。
返し雛は相変わらず自分の布団へ座っている。
朔のカメラでは、まだ台所の透明ケース内へいるように映る。
奈々香のスマートフォンを向ければ、返し雛ではなく制服姿の少女が座っている。
どの像を信じるべきか分からないままでも、現実の手で触れることができるのは、目の前にいる赤い着物の人形だった。
「私が戻す」
朔が止めようとしたが、澪は首を振った。
「最初のメールで、返してって言われた。組紐も私のところへ来た。ここまで来たなら私がやる」
「一人では触るな」
「みんな見てて」
美月が厚手の手袋を渡した。
澪は両手にはめ、返し雛の身体をそっと持ち上げる。
見た目より重い。
内部に木や陶器だけではない何かが詰められているような重量が掌へ沈んだ。
人形の髪から、古い線香に似た匂いがした。
閉じた瞼は動かず、赤黒い唇も変わらない。
それでも祭壇へ近づくほど、澪には人形が自分の腕の中でわずかに温かくなっていくように感じられた。
「無理なら止まって」
美月の声に頷き、澪は台座の前へ膝をついた。
丸い埃の跡へ返し雛の底を合わせる。
大きさはほとんどぴったりだった。
ゆっくりと手を離した。
何も起こらない。
照明も消えない。
人形も動かない。
壁の御札が揺れることも、女の声が響くこともなかった。
奈々香が長く息を吐いた。
「終わった?」
澪もスマートフォンを確認した。
画面には、常世荘へ来てから表示されていた七つの小さな印が並んでいる。
すべて黒かったうち、一番左の印だけがゆっくり赤く染まり始めた。
一つ、返却しました。
その文字が表示された。
「成功した」
悠斗が壁へ背を預けるようにして息を吐いた。
美月も肩の力を落とし、蓮司は祭壇と端末を交互に見ながら、少なくとも送り主の条件では一つ目が成立したらしいと呟いた。
朔は安堵するより先に、人形の位置と台座、スマートフォンの画面を続けて撮影した。
澪は張りつめていた呼吸をようやく吐いた。
七刻女学校から続いてきた返し雛を、初めて本来の場所へ戻せたのだと思った。
人形が何を覚え、誰へ何を返すものなのかは分からなくても、少なくともこの一体については終わりへ近づいたはずだった。
そのとき、祭壇の奥から女の声がした。
「違う」
六人が同時に固まった。
近い声だった。
スピーカー越しでも壁の向こうでもなく、祭壇のすぐ奥、木板一枚を隔てた場所から息と一緒に聞こえた。
澪は返し雛を見る。
人形の顔が、ほんのわずかに右へ向いていた。
置いたときは正面を向いていた。
朔のカメラを確認すると、映像の中でも人形は確かに正面を向いたままだ。
それなのに現実の返し雛だけが、声のした祭壇の奥へ顔を傾けている。
「触らないで」
朔が低く言った。
誰も動いていない。
祭壇背面の木壁へ、赤い染みが浮かんだ。
最初は古い血痕のような小さな点だった。
それが左右へ伸び、細い線を作り、誰かが内側から濡れた指で書いているように一文字ずつ形を持ち始める。
〈これは私の人形じゃない。〉という文字を読み終えた奈々香の喉から、小さな悲鳴が漏れた。
澪は画面を見た。
スマートフォンにはまだ〈一つ、返却しました。〉と表示されている。
その文字の下で、赤く染まった最初の印だけが一度強く明滅した。
祭壇の奥から、女がもう一度囁いた。
「返す相手を、間違えてる」
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の